今回は『ボーンアゲイン』として奇蹟の復活を遂げた元・ネットフリックスドラマ『デアデビル』を紹介します。

まさに頭一つ抜けた完成度。
ネトフリマーベルの思い出
「うちもヒーロー映画やろう!」

Netflixマーベルユニバース──それは2010年代の幻影。
『アベンジャーズ』が世界を席巻していたあの頃、Netflixは「うちもヒーローモノやりたいな…」と思い立った。
…かどうかは知らないが、とにかく実際にマーベルと手を組み独自路線のヒーロー作品を世に放った。それが通称ネトフリマーベルだ。
アベンジャーズ組が宇宙規模の世界観をブチ上げた傍ら、こちらはニューヨークの汚い路地裏を主戦場にダークな独自路線。
そこから生まれたのが規格外の傑作『デアデビル』だ。
もし万事順調だったなら「ディズニーの煌びやかな表マーベル」と「ネトフリの陰鬱な裏マーベル」という二つの世界線が並走する、夢のような時代が到来していたかもしれない。
盛大にコケる
…しかし現実は非情だった。
超弩級の完成度を誇る『デアデビル』は、あいにく「仲間」に恵まれなかった。
『ジェシカ・ジョーンズ』『ルーク・ケイジ』『アイアンフィスト』ときて、その集大成となるはずだった『ディフェンダーズ』に至るまで、どうにもこうにも盛り上がりに欠ける。どれもこれも「悪くはない」が『デアデビル』と比べると格が違うのだ。
「エースはケタ違いだが、それを支える仲間が凡庸」という哀しきプロ野球チームのような運命を辿ったネトフリマーベルは、結局波に乗れぬまま解散。
2025年現在、彼らはディズニープラスの片隅で「昔のコンテンツ」として静かに眠っている。
ネトフリマーベルがディズニーに吸収された経緯は権利関係の事情が大きいらしいが、作品のしょんぼり具合が哀しい運命を引き寄せてしまったのは確実だろう…。
だが、だからこそ言いたい。
『デアデビル』は今なお輝いている。いや、むしろ今こそ再評価すべき作品なのだ。
見えない男の暴力衝動
目隠し怪人爆誕

主人公マット(チャーリー・コックス)。彼は全盲である。ここがまずミソだ。
顔の下半分を布で覆って正体を隠すヒーローはたくさん居るが、彼は逆に上半分を隠す。
普通なら「見えねぇだろ!」とツッコミたくなるが、そもそも彼は全盲。視覚以外の感覚が超人的に発達しているため、目隠ししても問題ないのだ。
そうして完成した「プロトデアデビル」は…普通に怖い。目隠し男がキレッキレの動きで襲ってくる──洒落にならない。完全に怪人だ。
デアデビルのヒーロー像が、某クモ青年のような人々に愛されるキャラから遠くかけ離れていることは明らかだろう。
「俺、ほんとは殴りたいだけなんじゃ…?」
しかもこの怪人自身も、自らの暴力衝動におびえていると来た。
人助けがしたいのか、それとも単に誰かを殴りたいだけなのか…。彼の内面は常に葛藤で満ち、それを象徴するように懺悔の場である教会が頻繁に登場する。
悪魔(デビル)の名を冠する男にとって、信仰は切っても切れない呪縛なのだ。
彼がその暴力と信仰の狭間で自己を受け入れ、「マスクの怪人」から「デアデビル」へと至る道程こそが、シーズン1の縦軸となる。
これはスーパーヒーローものの「本編」というよりも、むしろその血と汗に塗れた前日譚なのだ。
暴力と純粋のキングピン

悪役、ウィルソン・フィスク(ヴィンセント・ドノフリオ)のキャラ造形も一筋縄ではいかない。
彼は「キングピン」として恐れられる、ニューヨークの裏社会を牛耳る悪の帝王だ。
邪魔者は即排除。冷血&非情。
街の悪党ですら彼を恐れ過ぎて機嫌を損ねただけでで潔く自害するという恐怖のカリスマである。
その一方で彼は芸術を愛する豊かな感受性の持ち主であり、愛する女性にはほとんど少年のような純朴さを捧げる。
遠藤浩輝の傑作コミック『EDEN』のセリフを借りるなら「大切な人には限りなく優しく、そうでない人には限りなく残酷になれれば一人前だ」を地で行く男。
悪役ながら「もう一人の主人公」として、その魅力は尽きない。
生傷が絶えない、斬新なリアリズム
常にボコボコにされている
『デアデビル』を際立たせるのが、その斬新なリアリズムだ。
マットは超越的な感覚を持つが、体はあくまで生身の人間。
生身で戦いまくるため当然のように常に全身傷だらけだ。
毎回のように瀕死の大ダメージを負い、自宅にたどり着くやバッタリと倒れこむ。そして翌日は弁護士として普通に出勤し「いやあ、昨日転んじゃってさ~……」という苦しい言い訳をこれまた毎回繰り返す。
ヒーローがダメージを負うのはお約束だが、ここまで日常的にボロボロになる姿を描いた作品はそうないだろう。この徹底的な肉体描写こそが本作のアイデンティティだ。
シリーズの華、ワンカット長回し戦闘シーン
そんな肉体表現の頂点が、本作の華であるアクションシーンだ。顔を隠せる設定を活かし、スタントを惜しみなく投入したその動きはキレッキレ。
特に第2話『カットマン』のラストは圧巻だ。
瀕死の重傷を負いながらも、誘拐された少年を救うため、敵のアジトに乗り込むマット。カメラはまずアジトの構造と敵の人数をじっくりと捉える。
そこへマスクの怪人マット登場。
しかしすでに重傷を負った体はキレが悪い。むしろ傷が開いて今にも死にそうだ。
激痛に耐えながら彼は殴り、蹴り、戦い続ける。全員を倒し切ったときにはマット自身が虫の息だ。それでも少年を救うために、彼は立ち上がる——。
この一連の激闘を、なんとワンカットで魅せる。
生々しい激痛の描写と、アクションの力強さ。それはボロボロになっても「やるべきこと」をやり遂げる、マットの信念の強さそのものを表わしているのだ。
デアデビルの遺産
ドラマ版『アベンジャーズ』になるはずだった『ディフェンダーズ』は、はっきり言ってコケた。
だがその失策をもってしても『デアデビル』の輝きは微塵も霞まない。
『シーズン2』ではパニッシャーが登場し、共闘という名の衝突を繰り広げる。
『シーズン3』ではブルズアイが登場し、宿命の対決が展開される。
そして2025年現在、『ボーンアゲイン(実質シーズン4)』として物語は続いている。
ネトフリマーベルが崩れ去っても、マット・マードックは立ち続ける。
目隠しの怪人は、今もなお闇の中で戦っているのだ。

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