『ジョーカー』バットマン不在のゴッサムで語られる、「悪」についてのある神話

今回は『ジョーカー』です。

続編も含めて、定期的に「あの映画は何だったのか?」って思い出す。

評価 :4/5。

あらすじ

出典:TMDB

制作:2019年
監督:トッド・フィリップス
主演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ

1980年代、ゴミと暴力あふれる街ゴッサムシティ。
その片隅で、アーサー・フレックという男が母親と二人暮らしをしている。
彼はピエロの派遣業で経済的にギリギリの生活をしつつ、いつかスタンダップ・コメディアンとして名を上げることを夢見ている。

だが現実は厳しい。
職場では疎まれ、街では殴られ、精神科のカウンセリングは打ち切られ、薬も処方されなくなる。
そんな彼が、ある事件をきっかけに「ジョーカー」として覚醒していく…。

 

 

退廃の極み

「バットマンの敵の誕生譚」などという生ぬるいコンテンツでは収まらない一作だ。むしろ往年の問題作『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』をアメコミ汁で煮込んだような、社会病理の煮こごりだ。

ホアキン・フェニックスの演技は、もはや「怪演」などという言葉では足りない。
彼の痩せこけた背中と笑いながら泣いているような顔面は、観客をイライラさせつつと哀れみも強いる。笑い声が病的に響くたびに、こちらの胃がキリキリする。

語り口もまた異様かつ巧妙。
アーサーの視点に寄り添いながらも現実と妄想の境界をぼかす演出は、観る者とアーサーの狂気を同調させてくる。これは危険な映画だ

ラストの展開はまさに「社会が生んだ怪物」の証明であり、同時に観客自身の内なる闇を照らす鏡でもある。

 

 

一切の同調を拒む続編

とはいえ、ただの胸糞コンテンツでもない所が本作の「風格」だろう。
映像は美しく、音楽は不穏でありながらも詩的。ゴッサムの腐敗を描きながら、どこか耽美的な空気が漂う。

超有名なジョーカーが階段を踊るシーンは、狂気とカタルシスが爆発的に融合する。あれを「ダンス」と呼ぶか「発狂」と呼ぶかは観る者次第だが、少なくとも忘れがたい一幕であることは間違いない。

『ジョーカー』は「陰キャがヤケクソになって人を殺す話」などという雑なまとめでは到底語れない。
続編『フォリ・ア・ドゥ』がさらに観客を突き放した結末だったことも含めて、観る者に挑戦してくる一作。これは現代社会における孤独・格差・無関心の本質を照らし出す反逆の一撃なのだ。

 

 

 

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