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『聖なる鹿殺し』感想・考察 スパゲッティは飲み物じゃねぇんだよ(怒)!

今回は『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』の感想をお送りします。
なんともA24らしい不快なホラー。
その不快さが頂点に達するスパゲッティ食べ食べシーンは強烈でした。

 

 

聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア

2017年 イギリス・アイルランド
監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア(字幕版)

 

評価 C

 

心臓血管外科医のスティーブンは、美しい妻と二人の子どもとともに豪邸に住む成功者。だが彼には秘密があった。家族に隠れてある人物と定期的に逢っているのだ。
その人物はマーティンという少年。

スティーヴンは少年に不自然なまでに親切を重ねる。しかし少年の要求は日ごとに厚かましくなっていく。
スティーブンは少年に何か弱みを握られているのか?

やがてスティーブンは少年を自宅に招くが、その日を境にスティーブン家では異様な事態が起き始める…。

 

…というお話です『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』。
平和な一家に招かれざる闖入者が現れみんな不幸になる…というテロップはホラー映画のお約束。本作もまたその"王道"に忠実なつくりです。

しかし本作が他作と一線を画すのはその不穏さ。
もうね、ただただ不穏。
見ていて心が休まるシーンがいっこも無い。
ドキドキするとかスリルがあるとかではなく、ひたすら居心地が悪いという歓迎できかねる雰囲気です。

 

まずカメラワークが変。登場人物とカメラが常に不自然な距離を保つのが妙~な空気感を醸し出します。
登場人物らが画面手前に向かって歩けば、それと一緒にカメラも後ろに下がる。
登場人物らが画面奥に向かって歩けば、カメラもそれを追いかける。
かと思えば、唐突に差し込まれる真上からの見下ろし俯瞰…。
まるで演者らを観察するかのような突き放した視点ですが、その意図は判然とせず。意味不明さが一層不安を煽ります。

妙に"引き"かつシンメトリーな構図が続き、落ち着く瞬間がありません…。

 

シュール過ぎるBGMも強烈。
不穏なことが起きると不穏な音楽が流れる…と言えば映画なんだから当然のことのようですが、その音楽がもう極端に異様なんです。
リズムがなく、メロディもない。
アコーディオンの不協和音だったり…高音過ぎてひっ掻き音っぽくなってるストリングだったり…。音楽と言うより、まるで不安をかき立てることに特化した効果音。
ちゃんとした"従来の意味での音楽"は劇中にしっかり意味をもった形で登場するので、なおさらBGMの異様さが際立ちます。

 

出演者らの喋り方も変。なんと全シーン棒読み
悲しむシーンも、恫喝するシーンも、唐突に挟まれる下ネタギャグも、すべてが棒読み。異様な無機質感。
な、なにこれ(;^ω^)
こんな映画観たことないよ…。

 

そして『聖なる鹿殺し』最大の不穏さを醸し出すのは、何と言ってもマーティン少年を演じるバリー・コーガンの怪演でしょう。
終始目が泳いで落ち着きがなく、そのくせ言動は礼儀正しいので一見悪人には見えない。唯一無二すぎる異様さの悪役キャラです。

その不気味さが頂点に達するのは、予告編にもあったスパゲッティ食べ食べシーン。
映画秘宝をして「映画史上最も癪にさわる食べ方」と評さしめたそのシーンは強烈そのもの。同シーンで語られる「スパゲッティの食べ方はみんな一緒」というセリフも「そんな訳ないだろ一緒にすんな!」というツッコミを明らかに待ち構えているところがなおさら意味不明で怖い。

登場シーン全てでキモさをアピってくるマーティン。汚ねぇ!
ビジュアルもキツイが「ねえねえおじさん、腋毛くらべしようよ!」などのセリフもいっそうキツイ。

 

 

以下の記事 ネタバレ注意!!

 

 

こっからは考察を少々。

マーティンは言います。
「あなた(スティーブ)は僕の父を医療ミスで殺した。だからあなたの家族も誰かが死ななくちゃならない。そして誰が死ぬかはあなたが決めなくてはいけない。」
やがてその不吉な予言を実現するかのごとく、スティーブの家族を異変が襲う。まず息子が歩けなくなり、そして食事をとることが出来なくなる。そして娘も同じ症状に。やがて彼らは目から出血し、最終的には死に至るのだとマーティンは言う…。

これは病気なのか?
それとも呪いなのか?
説明はありません。あるのはマーティンの予言が現実となるであろう確信だけ…。

超不条理です。
「これは例え話なんだ」というメタ的なセリフを免罪符に、なんら納得のいく説明のないまま登場人物らに過酷な運命が課せられていきます。

 

当初はこの運命に抗おうと色々試していたスティーブですが、割とテキトーなところであっさり諦めてこの"ルール"を受け容れてしまいます。

すると妻・娘・息子の3人は、なんとか自分だけは助かろうと熾烈な命乞い合戦を繰り広げ始めるワケです。死の椅子取りゲームが威勢よくスタート。

妻:セックスすれば子供はまた作れるね!(だから私は殺さないでね)
娘:私はどうなってもいいから、あとの二人を救ってあげて!(こんなにイイ子ちゃんな私をまさか殺さないよね)
息子:ママが好きって言ってたけど、本当はパパの方が好きだから!(だから僕は選ばないでね)

三人そろって利己的で「力を合わせてこの難局を乗り切ろう!」など建設的な意見を言い出す人は皆無。
なんじゃこりゃ…(;^ω^)

娘と息子はまだいいとして、母親のニコール・キッドマンが「子供なんかいくらでも生んだるから、アタイは選ばんといて!」と言い出すのには失笑。
我が子を犠牲にして自分が生き残ろうとする浅ましさマジ半端ない。確かにそういうクソ親キャラも胸糞映画の定番要素ではあるけどさ…ニコールさっきまで良妻賢母だったじゃん!いきなりキャラ変わりすぎだよ!

 

夫の好きなプレイ(夫婦間コードネーム:全身麻酔)で媚を売るニコール。
子供なんかなんぼでも産んだるかんね!アタイは選ばんといてね!!

 

唐突ですが、ここで古代バビロニアのハムラビ法典を引き合いに出してみましょう。
ハムラビ法典は、有名な「目には目を」というパワーワードに象徴される法体系。"痛みの等価交換"を原則とする復讐法です。

「誰かの目を潰したら、その者の目も潰されなければならない」これは理解できます。納得できるかは置いておいて、言いたいことは分かる。

「誰かの歯を砕いたら、その者の歯も砕かれなければならない」これも理解できる。

でも
誰かの娘を殺したなら、その者の娘も殺されなければいけない」これはまったく理解不能です。理解も納得もできない。だって娘関係ないじゃん!
百歩ゆずって
「誰かの娘を殺したなら、その者も殺されなければいけない」
だったらまだ話は分かります。
でも何にも悪いことしてない娘が死ななきゃいけない理由が何一つありません。娘の人権はどうなるんだよ!

この違和感は、古代バビロニアでは常識だった「子供(とりわけ女性)は親の"所有物"である」という認識が、現代においては受け入れがたい非道であるというギャップに根差しています。
要するに倫理観の前提がまったく違うのです。

だからって「古代バビロニア人はケダモノ同然のクソで、現代社会に生きる我々こそが理性的な存在である」という主張は何の意味も成しません。そこにはただ前提の違いがあるだけだからです。
このへんはもう、私のつたないお話より『サピエンス全史』のが100倍分かりやすくて面白いでしょう。

 

 

話をもとに戻して『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』ですが、要するにこの映画は現代の倫理観を相対化した寓話なのです。

タイトルの"聖なる鹿"とは、古代ギリシャの戯曲の一つがモチーフ。
英雄アガメムノンは神様の鹿を殺した罪で、娘のイピゲネイアを生贄に捧げなくてはいけなくなる…って話です(まあ読んだことはありませんが(;^ω^))。
なお本作監督のヨルゴス・ランティモスもギリシア出身。

ここでもハムラビ法典と同じ違和感が噴出します。
つまり「イピゲネイア関係ないじゃん!」というツッコミです。
鹿を殺した責任は父親のアガメムノンにあるんだろ?だったらお前が自分で責任とれよ!
娘は父親の所有物じゃねえんだよ、一人の人間なんだよ!

…そんな物申すが無意味なのは前述の通りで。
『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』は建前的には「現代アメリカに古代ギリシア文学(イピゲネイアの悲劇)を再現しようとした」映画と言えなくもないでしょう。しかし実際は、倫理観の前提がまったく違うドラマがいかに不快さを煽るかという思考実験的な面を持つホラー映画なのではないでしょうか。

 

結局スティーブは誰を死なせるか決めることが出来ず、くじ引きで息子を死なせます。
くじ引きって言うか「ぐるぐるどっか~ん」なんですが、このシーンの腹立たしいほど滑稽な絵ヅラはマジで不快感200%(;^ω^)

で、息子をいけにえに捧げて平穏を取り戻したスティーブ一家が、バーガーキングでマーティンに一瞥をくれて去るシーンで映画は終わります。
何一つ納得することが出来ない、カタルシス皆無のラスト。胸糞映画の歴史に新たなレジェンドが刻まれました。

 

そんな訳で『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』の感想でした。
『ファニー・ゲーム』にも通じる、物理法則さえ無効の「話の通じなさ」が怖く、そしてとことん不快なホラーでしたね…。
もう二度と見たくありません。

 

町山氏による『聖なる鹿殺し/キリング・オブ・ア・セイクリッドディア』の考察が冴える一冊。
「これはヨルゴス・ランティモスの半自伝な映画である」という解釈はすっごく腑に落ちます。例のスパゲッティ食べ食べシーンにも説明がつくし。






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